到底辿り着かないような場所にいる人を好きになるというのは、幸せであり絶望でもある。ということを、気が遠くなるほどの年月を経てやっと気づいた。私の目の前でうつらうつらとする男を見る。さっきから、ずっととりとめもない話をしてしまっていた。眠くなるのも当然だろう。もう丑三つ時だ。
「…宇髄さん」
起きてしまうかな、でも、起こしたくないな。そう思いながら口に出した声は自分でも笑ってしまうほど小さかった。それでも彼のまつ毛はぴくりと反応した。さすが、音柱。
「…悪い、派手に寝てたわ」
赤い瞳が覚醒し、大きくのびをする。眠ることに派手も何もない。むしろ彼の寝姿はとても静かだったから、どちらかといえば地味な部類に入るのではないか、と思ったけれど、口にはしないでおいた。不機嫌になってしまうかもしれないし、それにその寝顔がとてつもなく美しかったから。地味というのも、それはそれで違う気がした。
「いいえ、お疲れなんですね」
「あー、まあ、最近いろいろあってな」
「…お仕事がらみで?」
「まあ、そんなとこだ」
私にあまり多くを話したくないのか、そのままふいと視線をそらした。その横顔がまた綺麗で、私は再び見とれてしまう。以前、正直に「綺麗なお顔ですね」と言ったら、「まあそうだな」とさらりと肯定された。さすが嫁が三人いるだけのことはある。
「…なあ、お前」
ぽつりと言葉が漏れる。とうとうか、と私は身体をかたくした。
「鬼だろう?」
よくわかりましたね、とか、いつから気づいていたんですが、とか、その時がきたら言おうと思っていたことが頭の中をせわしなく行きかったけれど、結局何も言葉にはならなかった。ただ一言、「ごめんなさい」と、小さな声で謝るのがせいいっぱいだった。
「鬼のくせになんで俺に見つかったとき、襲ってこなかったんだよ」
おかげで一瞬わからなかったじゃねえか、と、宇髄さんは私の目を見て言った。私は緊張で身体をまたかたくする。
「…青空を」
「え?」
「青空を、全然見てなくて、それで」
ずっと見たかった。もうとうの昔になくしてしまった記憶の断片。青い空。太陽の光。その下で笑いあう私と、両親と、兄弟たち。宇髄さんに会ったとき、なぜかその景色を思い出した。綺麗な空。美しい太陽の光。
この人と会うと、もう見ることのないその景色を見れる気がした。
「俺は空じゃねえけど」
「そう、ですね」
「勘違いだったら悪いんだが」
「…はい」
「お前、俺に惚れてるのか?」
あまり情緒もなく尋ねられ、どうしたらいいかわからず目線を泳がせた。なるほどな、とため息をつくのが聞こえる。「俺はまあ色男だからな」とかなんとか言っているのも。
「けど、お前の気持ちには応えてやれねえんだ」
知っている。このひとは鬼殺隊の柱だ。むしろ会った瞬間斬り殺されていたっておかしくなかったのに。どうしてあの時、斬らなかったんですか?私が尋ねると、宇髄さんは少しきまりが悪そうに頬を掻いた。
「それが俺にもわからないんだが」
お前となら話してみてもいいって思ったんだよ。
それはとても、とても幸せな言葉だった。鬼になって、さんざん人を殺して、もはや人であった記憶なんてほとんどなくしていた私が、突然出会った柱の男に恋をした。そんな馬鹿みたいな話、誰も信じちゃくれないだろう。けれどともかく、宇髄さんはあの時私を殺さなかった。だから私も、それから度々同じところで彼を待った。会えない日も多かったけれど、今日みたいに会えた日は、彼は静かに私の近くに座り、話を聞いてくれた。だから私も一生懸命話した。夜の雪景色が美しかったこと。月の形がゆうべは変てこだったこと。最近ようやく梅の蕾が色づいてきたこと。
話して、話して、ようやく訪れた沈黙だった。宇髄さんは私の顔を見て、それから下をむいて「時間切れだ」とつぶやいた。それは私のことだとすぐにわかった。恐怖はなかった。家族を鬼に殺された時の方が、ずっと怖かった。
そう思って気づいた。ああ、私にも、まだその記憶が残っていたのだ。
たくさんの罪のない人を殺めた。きっと子供や、私と同じくらいの年の女の子もいただろう。その方が男より殺しやすいから。だから私がここで、はじめて好きになった人間に殺されるのは、過分な幸福なのだ。
「宇髄さん」
「ん?」
「私、幸せです」
笑って言ったつもりだったのだけれど、宇髄さんは笑い返してくれなかった。むしろちょっと怒ったような、困ったような、眉間にシワの寄ったむつかしい顔になった。私がきょとんとしていると、また俯いて「お前、自分の名前を憶えているか」と私に尋ねた。
「…」
覚えていなかった。そのはずだったけれど、意識せず口から一人の女の名前が零れ落ちた。ああ、そうだった。私の名前はだった。
「綺麗な名前だな」
そう言って笑う宇髄さんのお顔があまりに穏やかで、私は泣きそうになる。怖くないか?とまた優しく訊かれて、ぶんぶんと首を振った。怖いなんて、そんなこと思うはずなかった。思う権利すら本当はないのに。
苦しみはないんだろう。この人はそういう人だ。目を閉じ、彼の呼吸と熱を間近に感じ、私はいっそ、抱きしめられているかのような心地だった。ひゅんと風の切られる音がして、「」と愛しい声が私を呼んで、刹那、世界が静かに沈黙した。
(22.12.30) title by サンタナインの街角で