愛しのアインシュタイン








何かに追われて逃げることは簡単だ。逃げているうちは相手のことを考えずにいられるから。一番怖いのは、立ち止まって、相手と対峙すること。


「あれ、まだいたんですか」

放課後の教室で理由もなくぼんやり椅子に座っていたら、ドアから不意に顔を出した彼と目が合った。

「…木手くん?」
「他の人に見えますか」

ごもっともな指摘に私は力なく笑う。あはは、だよねえ。当たり前のこと言ってごめんね。

「…さんは?」
「…座って、る?」
「それも見れば分かりますし、それを知りたいんじゃないですよ」

ええ、はい、そうですよね。それは私も知ってます。つまり部活も委員会も何もやってないはずの私が、一体なぜ放課後こんな遅くまで、テニス部の練習が終わる時間まで、一人で教室にいるのかって、そういうことですよね。木手くんが知りたいのは。


だけどそれを弁明するのはとてもむつかしい。


「説明的なのとドラマチックなの、どっちが好き?」
「何の話ですか?」
「好みの問題を聞いてます」
「…さっぱり分かりませんけど、説明的な方が、効率が良くて好きですかね」


その答えはとても木手くんらしくて、私はひどく腑に落ちた。そして同時に理解した。なぜ私が、こんな意味もなく放課後まで教室にいたのか。何のためにいたのか。いや、理解したというより、ようやく、覚悟を決められたのだ。その瞬間に。


「じゃあ説明的に話します」
「?…はい」
「好きです」
「……」
「木手くんが好きです」
「……」

ぽかんとした顔をしている。そりゃそうか、と思ったけど、乗りかかった船で続けた。

「何が好きかというと、いつも冷静で俯瞰的に物事を見ていて、まあそれが中学生らしくないんじゃないかって思う時もありますけど得てして素敵だなって思います。いつから好きかというと去年の秋に席替えで隣の席になってからです。皆の家族の話をしていた時に、すごく優しい笑顔でそうだねって言った木手くんを見て好きになりました。もちろんテニス姿も好きです。それで今後どうしたいかと言うと「さん」

遮られた。

「……今後どうしたいか「いやさん、待って」

二度も遮られ、何か言ってくれるのかと思いきや、木手くんはそのまま黙った。私は密かにうろたえる。何か分かりにくいことを言ってしまったのか、私の説明があまりに下手くそでイライラさせてしまったのか、それとも、そもそも、私の告白が迷惑だったのか。

「…ごめんなさい」

仕方ないのでとりあえず謝った。すると木手くんはいつもより目を見開いて、「は?」と小さく言った。

「…なんで謝るんですか」
「いや、木手くん、困ってるから」
「困ってませんよ」

この回答は早かった。

「困ってませんけど…いえ、今、困ってるかもしれません」
「…どっち…」
「…困ってるというか、うろたえてます」

木手くんは眉間にしわを寄せていた。その表情がまた好きだな、と思ったけれど、私がこれ以上何か言うと事態の混乱を招くだけだから黙っていた。それに何より、さっきから心臓の音がすごくて、口の中がカラカラだったので、あまり色々と喋る余裕はなかった。

「…さっき、」

木手くんが、ゆっくり口を開く。私はカラカラの口を潤したくて、何もないつばを飲み込もうとした。こくんと、耳元で乾いた音がする。

「説明的がいいか、ドラマチックがいいかって、聞きましたね」
「はい」
さんは、どちらが好きですか?」
「…ドラマチックが、いいかな」
「……ゲーテの言葉では「やっぱり説明的がいいです」

「…いいんですか?」
「いいんです」

だってゲーテとか絶対分からない。

「…俺も好きです」

木手くんは、そこでようやく私を見た。黒い目、凛とした視線。私はその目にくらくらする。

「どこが好きかと言うと「木手くん」

「…まだ何も説明してないですけど」
「うん、でも、もう大丈夫」
「…勝手ですね」
「ごめん…」
「いいですけど、別に」

それはとても端的だったけれど、私には十分ドラマチックだった。知らないことはこの先埋めていけばいいから。だから今は、もういいよ。

「ありがとう」

視線が恥ずかしくなって俯いた。じわじわと全身に幸福感が広がっていく。少し離れていた木手くんが、そっと近づいて、私の髪に触れるのが分かった。







(16.04.25)

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