けん、けん、ぱ。新年会からの帰り道、酔った勢いもあって、懐かしい足取りを久しぶりにやってみる。けん、けん、ぱ。昨日、前を歩いていた小さい男の子が、お父さんの手に引かれながらやっていたのだ。おそらく道に敷かれたブロックの、白い部分だけを踏む、というルールで。だからわたしも真似してみた。開始して数秒で、自分の体の重さにバランスを崩してふらついたけれど。そのことに呆然としていたら、後ろからくすりと笑う声が聞こえた。恥ずかしさに耳が熱くなる。








真円の愛










「…笑わないでもらえますか」
「だって、いくらなんでも、足取り重すぎるんじゃない」
「わたしだって驚いてますー!」

涼しい顔をして後ろでくすくす笑っている神を軽くにらんだ。悔しくてもう一度やってみる。けん、けん、ぱ。今度はだいぶ安定していた。なんだ、久しぶりで体がなまってただけじゃないか。もう成人してだいぶ経つけれど、案外、大人も楽しめるものなのかもしれない。けん、けん…

「危ないよ」

急にぐっと腕をつかまれて、わたしの体は大きくバランスを崩す。え、と思ったときには、もう神の方にもたれかかるようにして倒れていた。そのすぐそばを、チリンチリンと音を鳴らしながら自転車が走り去った。

「……」
「ごめん、自転車にぶつかりそうだったから」
「…うん」

大丈夫、と答えると、神はすこし笑って、よかった、と呟いた。冷たい風が吹いて、思考が少しずつクリアになる。同時に、自分のしていたことの幼さにも気づいて、別の理由でまた耳が熱くなった。お酒が入っているとはいえ、神はこんなに冷静なのに、とても恥ずかしい。

空を見上げると張りつめいた冷気のむこうに、澄んだ濃紺が広がっていた。ところどころにぴかぴかと光る星が見える。冬の夜空は好きだ。夏よりずっとクリアに星が見えるから。息を吐くと白い靄がふわりと広がった。お酒で火照った頬には、これくらいの気温がちょうどいい。

「いいお天気だね」
「…うん、夜だけど」
「夜にもいいお天気はあるでしょ?」
「そうだね」

低く、小さく肯定する神の声が、わたしの頭に沁みこんでいく。目をつぶって息を吸うと、冷気が身体の中にすっと入ってくるのがわかった。透き通るような冬の空気は、神のようだ、と唐突に思った。どこまでもクリアで、まっさらで、混じりけがない。後ろめたさがない。迷いがない。わたしは、濁って、先のことはおろか、自分のことすらわからないのに。

「…神」
「ん?」
「聞いたよ」
「なにを?」
「異動するんでしょ」

少し前を歩いていた足が止まった。ちょっと驚いたような、困ったような顔がこちらを見た。それは、なんで知ってるの、と言いたそうな、なんで聞いちゃったの、とも言いたそうな、いくつかの気持ちが含まれる表情だった。わたしだって、こんな早くうっかり知ってしまうなんて、予想外だった。うちの会社の人事はだいたい春に変わることが多いから、今みたいな冬の時期に突然そんなことが起こるというのも、相当驚きだったけれど。

「…誰から聞いたの」
「さっき、課長がこっそり教えてくれた」
「絶対内緒のはずなんだけどなあ」
「うん、べろべろに酔ってたから、わたしを神と勘違いしたみたい」
「…それ、間違える域超えてるよね」
「まあ、はっきり異動って言ったわけじゃないから」
「……」
「でもそうかなーと思って聞いてみたら、当たってたみたいだね」

へへ、と自嘲気味に笑った。性格が悪い彼女でごめんね。あなたを試すみたいなことして、ごめん。でもストレートに聞いても絶対教えてくれないだろうと思ったから。わたしの優しい彼氏は、突然の異動に色んなことを考えてくれたんだろうと思う。課長の口ぶりから察するに、きっと、しばらく会えなくなるんじゃないかな、という感じだった。今一緒に住んでいる家もわたし一人になるだろうし、毎日顔を合わせることもなくなるだろうし、なんなら、毎日、話すこともできないかも。海の向こうへいってしまったら。

「…が心配することじゃないよ」
「そう?でもわたし、平気だよ」
「何が?」
「神が遠くへ行っちゃっても」
「…本当に?」
「ほんとうに」

立ち止まっている背の高い彼氏を置いて、私はまたさっきの遊びを繰り返す。けん、けん、ぱ。白いブロックは途中で途絶え、薄く濁ったグレーのブロックと、濃いアスファルトの道に変わった。わたしはグレーの上を進む。けん、けん、ぱ。不安定な足取りは思考を止めるのには有効だった。


「ね、神もやってみてよ」

「これ結構ハマる…」

よ、と言う前に、また腕をつかまれた。同時に今度はさっきより強い力で引っ張られる。頭に何かが触れるのがわかった。後ろからの熱で、すっぽりくるまれると、自分が世界一安全な場所に閉じ込められたような気持ちになった。

あったかい。そう言って目をつぶると、体にまわされた腕の力が少し強くなった。

「まだ、返事はしてないんだ」
「どうして?すごいことじゃないの?」
「…でも、としばらく会えなくなる」
「わたしなら大丈夫だよ」
「…俺が、大丈夫じゃないよ」

そんなこと。わたしは思わず笑ってしまう。そんなこと、ないよ。神がわたしがいないとダメなんてことは、決してない。だっていつもそうだもの。あなたは昔から、一人で悩んで、一人で解決していた。わたしはそれを横で見ていただけだ。別に悲しくて、悔しくて言ってるんじゃない。ただ、本当にそうだったから。それをいつも、わたしがいたから、と言ってくれるのは、神の最大の優しさなのだと、わたしはとうに気づいている。

この人の目に映る世界はきっとどこまでも公平で、清らかだ。

「…ねえ、そしたら」
「え?」
「三か月経ったら、絶対一度は帰ってきて」
「……」
「それでまた三か月、我慢するから。それくらいなら、わたしも大丈夫だよ」

腕の力が少し弱くなったので、わたしは振り返ってその表情を確かめる。どこか安堵したような、まだ少し疑うような瞳を見る。その瞳があまりにキレイで、わたしはまた笑ってしまう。愛しいひと。大丈夫、あなたが思うより、わたしの世界はほんのちょっとだけ意地悪なのだ。

「…約束するよ」

その誠実な答えに、わたしはふと泣きたくなった。あなたは絶対に、帰ってきてくれるんだろう。絶対なんてありえないのに、わたしはそれを否が応でも信じてしまうのだ。わたしの我儘か、あなたの献身か。相手を縛っているのは一体どちらなんだろう。

「早く帰ろ。寒いよ」
「…あ、うん、そうだね」

解かれた腕が、今度はわたしの隣にすべりこみ、冷えた手を握った。神の手は暖かかった。そのことにまたわたしは泣きたくなる。好き。大好き。自分でも怖いくらいに。だからいつも、何もかも消えてしまうんじゃないかという恐怖と闘っている。穏やかなあなたが、変わらず穏やかに、いつかわたしの元から消えてしまうんじゃないか。それを本当は、泣いてすがって、どこにも行かないで、と言いたいのに。それを言う隙すら、存在しないのだ。あまりに大きな愛が、わたしの小さなかすり傷みたいな恋を、たやすく封じ込めてしまう。

繋いだ手に力を込める。ふわりとあなたが微笑む。それすら、完璧。帰ったらコーヒーでもいれよう、とやわらかく言うその声を、わたしは冬の空に閉じ込めてしまいたくて、ひっそり目を閉じながら、ありがとう、と小さく答えた。






(18.01.05)
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