ことはじめ






「俺、さんのこと、ずっと嫌いだったんだよね」


帰宅前に吐き捨てられた台詞はとてもひどいものだった。しかも、私は彼に何もしていないのだ。思い当たることはひとつもなかった。その日の行動を振り返っても、朝からいつも通り登校して、いつも通り教室に入り、いつも通り隣の席の及川くんに「おはよう」を言った。今日の接点はそれだけ。及川くんも、「おはよう」と返してくれたのに。

いや、もしかすると、どこか変だな、とは思っていたかもしれない。今日、及川くんは、あまり表情を変えていなかった。女の子に囲まれている時も、何を訊かれても全て生半可な返事だったし、バレー部の人たちといる時も、どこか上の空だった。私はただ「席が隣なだけのクラスメイト」なので、だからといって何かした訳じゃないのだけど。


、帰らないの?」

友達に声をかけられてはっとした。及川くんはとっくに部活に行ってしまっていた。うちのバレー部は強豪だから、ほぼ毎日部活がある。私のいる吹奏楽部は、週3日だけ。それでも細々とコンクールで賞を取ったりはしているけど。


「あ、うん…」
「どしたの、元気ないじゃん」
「いや……私、何かしたのかな…」

あの及川くんにはっきり「嫌い」と言われる女子なんて、この世に何人いるのだろうか。来る者は拒まず、去る者は追わず、な、学園アイドルを体現したような彼なのに。私は一体何をしてしまったのだろう。この前、物理の時間にうたたねしていた彼を起こしてあげなかったから?試合に負けてしまった翌日に、気軽に試合結果どうだった?とか、訊いてしまったから?

どれもしっくりこない。及川くんは、そんな器の小さい人ではなさそうだから。






もやもやしたまま翌日を迎え、気まずい思いで教室に入った。及川くんは岩泉くんと、席で話し込んでいた。爽やかな笑顔で、とても楽しそうに。


―――ああ、イヤだ。


そう思ってから、自分にちょっと引いた。こんな気持ち初めてだった。楽しそうに笑ってる誰かを見て、嫌な気分になるなんて。とても性格が悪くなったような。


「…おはよう」

おそるおそる声をかけてみる。岩泉くんはすぐ気付いて、「はよっす」と返してくれた。そしてワンテンポ遅れて、及川くんが、

「…おはよ」

ゆっくり、呟いて、それから最後にふっと笑った。背筋がぞわりとする。なんで。なんで今、そんな風に笑ったの。



それから私は彼のことで頭がいっぱいだった。授業中も、休み時間も、お昼を食べている時も。だって何なのか、全然分からない。素直に訊けばいいのかもしれないけど、原因に心当たりがなさすぎて、かえってそれが怖かった。



「及川くん、ちょっと、いいかな」


放課後、観念して、私よりはるか長身の後頭部に向かって名前を呼んだ。ゆっくり振り返った目は、昨日と引き続き、どこか空虚。私の心は静かに冷えていく。


「何?」
「…あの、昨日の、ことだけど」
「昨日?なんだっけ?」

予想外の返しに私の心はさらに縮こまる。なんだっけ、って。こんなに今日一日、私はあなたの言葉に翻弄されていたのに。こんな、簡単に。

「……なんで」
「え?」
「なんで、あんなこと、言ったの」

なんで私のこと、嫌いになったの?私、あなたに、何もしてないのに。


スカートの裾をつかむ。怖い。なんだかよく分からない、見えない透明の何かが、確実に私の身体を締め上げていく。及川徹が、怖い。それは初めての感情だった。


「……ねえ、今、俺のこと怖いって、思ってるでしょ?」

見透かされて肩が震えた。こういうの何て言うんだっけ。

「俺がさんのこと嫌いなのは」

ああそうだ、『蛇に睨まれた蛙』。


「俺に何にもしてくれないからだよ」



まるで別のものになってしまったかのように、身体は固まって動かなかった。ゆっくりと及川くんの手が私の髪に、頬に、首に触れる。背中に、感じたことのない震えが走る。でもそれは、恐怖とはまた違う、何か。


「…や、」
「人当たり良くて、頭も良くて、密かに男ウケも良い」
「……」
「しかもそれ、天然とか」



「ずるいなあ」



顎を持ち上げられて、目線が合った。彼のキレイな顔が目の前で、その唇が、すうっと孤を描く。背中の震えはさらに大きくなる。お願い、もうやめて。



「キレイすぎて汚したくなる」


初めてのキスは涙の味がした。









(18.01.24)
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