かみさまの落とし物










なんにも知らなかった。私は、あなたの苦しみも、悲しみも。長い長い螺旋階段を降りた先に見えてくるものがあると信じていた。だけどそこにあったのは、何もない、からっぽの空気だけだった。



「ジロちゃん、口の横にご飯粒ついてる」
「え?どこ?」
「そっちじゃない、こっち」

自分の口元を代わりに示して頼りなくくっついた白いそれの行方を教えたら、彼はやはり頼りない手つきでぷいと取り除いた。私はそれをぼんやり見ながら、跡部はきっとこんなことをしないなあと思っていた。思いながら、まだすぐそうやって思考をつなげてしまう自分が可笑しくなった。跡部のことは、変わらず私の頭の中を半分くらい占めている。もう振られてから一か月以上たつというのに。


いつかすべてが風化する日が来るのだろうか。失ったものがあまりに私にとっては長すぎる存在で、忘れるのがむしろ怖かった。そんなシンプルな思い出にしかならないことが怖かった。



名前を呼ばれてはっとする。また跡部だ。呪いのような、麻薬のような。

「負けちゃった、試合」

ジロちゃんのぽつりとこぼした言葉に、再びはっとした。そうだ、この前、氷帝は負けたのだ。大会の出場権を賭けた試合に。それはつまり私たち3年生の、事実上の引退を示唆していた。

「…ごめん」
「え、なんでが謝るの?」

ジロちゃんは可愛い瞳を丸くする。私は何でもないと首を振った。

自分のことばかり。

――俺はおまえじゃねえんだよ。

吐き捨てるように言われた最後のセリフが耳にざらりと甦った。跡部の言うことはいつも正しかった。正しくて、真っ当で、疑う余地がなくて、そして、私を追い詰めた。

――私だって、跡部じゃない。

わけもわからないまま、売り言葉に買い言葉で投げつけた返事は、意味があったのか、なかったのか、いまだわからない。ただ彼はその答えにくっと綺麗な眉を寄せ、しばらくの後、そうだな、と聞こえるかどうかの小さな声で言った。それがわたしたちの全てになった。


けれど今なら、ほんの少しだけ、彼の言いたいことがわかる。人には目に見えない無数の傷がいっぱいあって、それもそのうちのひとつなのだ。私たちの言葉がかみ合わないことも、テニスの試合で負けてしまったことも、私が今寂しくて寂しくてたまらないことも。あんな王様に好かれるなんてことあるはずがないと信じていた二年前の私と、まさかの告白で付き合うことになった去年の私と、全てを失った今の私。いちばん不幸なのはいったい誰だろう。

、昼休み、終わっちゃうよ」

ジロちゃんの声で再び現実に戻る。わたしは、じっと手元を見ていた。少し泣きそうだったからだ。

「…?」
「ジロちゃん」

「跡部はどうして、私なんかと付き合ったんだろう」


ほとんど凪いだ空気が私たちの間をふんわり漂い、すり抜けた。悲しくて、苦しかった。でもそれはようやく手にした感情だった。それくらい、跡部を失った私の心は機能していなかった。跡部はどうだろか。彼もまた、試合に負けて、心が機能していればいいと思った。孤独な王様が、ひとりぼっちで、その痛みを我慢しなければいいと。


「…大丈夫だよ」
「え?」
といたときの跡部、楽しそうだったよ」

珍しく笑うことが多かったんだ。ジロちゃんはいつもの優しい表情で言った。私の耳が喜びそうなことを、ごく自然な風に言った。私はそこでようやく、ぼろりと片目から涙を落とした。食欲ないの?ねえ、屋上で食べよう、気持ちいいよ。そうやって私を誘い出してくれたジロちゃんは、間違いなく天使のように優しく、そして平坦だった。彼の変わらないその声音が、跡部を失ってからカチコチの石みたいだった私の心を、通常に戻してくれつつあった。


「もうひとつ、いいこと教えたげる」

あと1分したら、跡部、ここに来るよ。


え、と初めて動揺した私を見て、ジロちゃんは突然にやりと笑い、じゃあ俺先に戻るね、と立ち上がった。うちの部長を一人にしないでね、という置き土産よろしくな言葉とともに。

私は動揺し、呆然とし、そしてゆっくりと、聞きなれた足音が近づいてくるのを、片耳の奥で静かに聞いていた。







(19.01.02)

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