ぬるい明かりに若干のまぶしさを感じて薄目をあけると、伏せられた長いまつ毛が視界に飛び込んできた。

――あとべ。

聞こえるかどうか、唇を少しだけ動かし空で名前を呼んだ。すると驚くことに、まぶたがぴくりと反応した。けれどさすがに目はあけない。まつ毛の先に、小さな黒子。さわりたい、と本能的に思ったけれど、さわったら確実に起こしてしまうだろうから、やめておいた。

その寝息は静かで、どこまでも美しかった。






テトラポッドの焦燥







寝具の中から腕をのばし、そろそろと床に散らばった服を集めて身につけようとしたら、不意に後ろからぐいと腕をつかまれた。

「わっ」
「…黙って帰んなよ」
「ごめん、起こした?」
「いや、さっきちょっと目、さめた」

そう言っておもむろに起き上がった跡部の、息をのむような綺麗な身体を、私はまじまじと眺めてしまう。肩甲骨の浮き上がった背中は、きっと私が昔の芸術家なら彫刻にしていた。それを今、私がここで独り占めしている。とてもぜいたくだ。

「家まで送らせる」
「…いいよ、運転手さん、忙しいだろうし」
「今日は俺がずっと家にいるんだから、暇だろ」

本当は、あの黒塗りの車に乗るのが仰々しくて恥ずかしいから避けたかったのだけど、それを言っても鼻で笑われるだけだろうからおとなしく従うことにする。跡部は素早く床からシャツを拾い上げて腕を通した。綺麗な肩甲骨が見えなくなった。


部活が休みなのは週に一日だけで、そこがなんとなく二人で会う日となったのは、ほんの数か月前のことだ。お互いの身体に触れるようになったのは、もう少し後のこと。何もかもが初めてで、わたしはただ流されたに過ぎなかったけれど、嫌な気持ちになったことは一度もなかった。跡部は、ずっとやさしかった。


「早く着ろよ、風邪ひくぞ」

もうすっかり身支度を整えた跡部が、さっきからまるで進まない私を状況を見て呆れたように声をかける。私はふかふかの跡部家のベッドから離れがたく、のろのろと制服に袖を通した。学校へ行き、勉強をするはずの服を着て、こんなことをしている私は不良だろうか。でも、跡部がいるから、これはきっと正しい行いだ。彼のすることに間違いなんてないのだ。


「ねえ、さっきお手伝いさんが淹れてくれた紅茶、おいしかったね」
「いつもと同じだろ」
「そうかなあ」

気に入ったなら今度また同じのを頼んでおいてやるよ。跡部はそう言ってすこし笑ってくれた。私は今度こそ満足して、ベッドから降りる。今日は跡部の家にあがるからと、新品のソックスにしたのは正解だった。爪先まで清らかな濃紺が、まるで何事もなかったかのように私の足元を覆い隠す。それは制服のスカートも、ブレザーも。折り目正しい襞が、私はまっとうなのだと、主張を繰り返す。



先に目が覚めたのは私なのに、すっかり跡部が私を待つ姿勢になっていた。いつだって我らが帝王は冷静で、行動が早い。無駄がない。するすると淀みなく進行するのはなんだってそうで、私はいつもぼんやりしているうちにその流れにからめとられている。だから時々、そのスピードが恐ろしくて、自分の中でそっとブレーキをかけるのだ。なんだって、勢いがつきすぎるのは、危険だから。

「明日、部活あるけど、帰りどうする?」
「うーん、先、帰ろうかな。テスト近いし」
「家まで送らせるか?」
「ううん、大丈夫」

今、跡部の家からだって送られることを断ったくらいなのに、同じことを律儀に尋ねる跡部は、やっぱり冷静だった。そのひとつひとつが、もつれ合って、暴走することはないのだろうか。私が跡部のなかにある底知れないものに怯えて、いつもどこかで自制するように、彼もまた、どこかで自分を抑えているのだろうか。それはとても気になる問いだったけれど、今この流れで上手に訊ける気がしなくて、結局黙って彼の部屋を出た。足音を吸収する上質なカーペットも、重厚感のある装飾品も、跡部のまわりにあるものすべてが、彼を遠くへ押しやるもののようにも、ここへ縛り付けているもののようにも思えた。

「…跡部」
「ん?」
「明日、やっぱり、待っててもいい?部活終わるまで」
「いいけど、どうした、急に」
「べつに、なんとなく」

最後に笑顔を付け足したら、跡部はそれ以上詮索しなかった。ただ黙って私の手を握ってくれた。べたべたに甘やかすわけでも、突き放すわけでもなく、さりげない距離を保ってくれるのだ。そういう跡部が大好きだった。今も、たぶん、これからも。

すり減るほどの何かを私は持っていないし、跡部が望むなら、一緒に流されても、呑まれてもかまわない。ただ、彼が決してそんなふうにはならないと、頭のどこかでわかっていた。それはどこか私に寂しさをもたらしたけれど、それ以上に、彼のもつあらゆる美しいものが私の心を捕えて離さなかったから、それでいいと思った。

外へ出ると、夜がすぐそこまで迫っていた。少し寒くて肩が震えた。跡部はさりげなく、私のブレザーの上から、自分の着ていたカーディガンを羽織らせてくれた。

「寒くなったな」

少しずつ冬が深まっていく。私たちのこの恋は、変わらず続くだろうか。そうだったらいい。私がそうであるように、跡部もまた、すり減ることなく、二人静かに、手をつないでいられたらいい。








(19.01.28)
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