鈍色に光るものが部屋の対局に見える。視力の悪いわたしの裸眼には、それが何かまではわからなかった。クリーム色のタイルも、深夜の月明りで青白い容貌に。わずかに水の滴り落ちる音がする。あそこはキッチンだから、包丁か何かだろうか。暗くてかたい、無機質の色だ。ぼんやり考えていると、宗一郎の大きな手が、こっちにおいでと現実に引き戻した。血液が逆流する。ばらばらになる一歩手前。














耽溺のワルツ











「寒い?」
「ん、平気」

一人用の布団に二人で入るのはすこし窮屈だった。けれど人の体温は何にも代えがたい暖かさで、真冬の冷え切った手足を生き返らせる。宗一郎はそんなに体温が高いわけじゃないけど、わたしみたいに冷え性というわけでもない。スポーツやってる男の人って、冷え性とかなりにくいんだっけ。布団から一歩出ると凍えるような冷気が肌に刺さった。わたしはびっくりして、また暖かい布団の中に全身を埋める。宗一郎が少しだけ笑った。

「なあに」
、そうやって丸くなるとうさぎみたい」
「そんなに可愛くないよ」
「可愛いよ、俺には」

挨拶するくらい自然な流れでわたしの額にそっとキスする。こういう普通の人がやったら気障すぎることだって、このひとはさらりとやってのける。それともベッドの中ではみんなそういうものなのかしら。比較できるほど恋愛サンプルを持ち合わせていないわたしには、宗一郎の動作一つ一つが、ドラマで見るような美しさと艶やかさで彩られてるみたいに見える。なんて、まだ、恋に恋してるだけかな。


「…合宿、いつまでだっけ」
「明日から3日間」
「じゃあ次会えるのは4日後かあ」
「3日目も、夜なら会えるけど」

さすがに疲れて寝るだけになるな、と、穏やかな声で言葉を落とす。宗一郎の声はわたしの耳に届いて、じんわり身体に広がっていく。その整った形の唇からこぼれる一言一言は、わたしの身体をふわふわ浮かばせる魔法なのだ。話の途中なのに、我慢できずに唇をぱくんと食んだ。向かい合って絡めた手足がもどかしくなる。時々、この身体すら邪魔だと思うときがあるの。うすい皮膚さえ二人を隔てるように感じて。

すぐに唇は解放するけど、宗一郎が追ってきた。優しいキス。この人の行為はいつだって優しい。だけどその中に鮮烈な熱を帯びていて、じわじわとわたしの芯を疼かせる。誘発させている。一体どうやって、こんなこと覚えるの。前に本気で尋ねたら、宗一郎は「お互い様だよ」と笑った。お互い様って、わたしは何もできないのに。腑に落ちなくてそう返すと、気づいてないだけだよ、とやっぱり優しく彼は笑った。


暗がりの中にうっすら浮かぶわたしたちの肌は、冬の静けさの中に横たわる二つの生命。宗一郎の首から肩にかけて、綺麗な稜線がわたしの世界を凌駕する。小さく窪んだ鎖骨が見える。

このひとを象るひとつひとつ、本当は身体のすべてを手に入れたくて、だけどそれは恐ろしい所有欲だ。それはぽっかりと空いた暗い穴で、幼い愛をいとも簡単に引き込んでしまうのだ。さっきから微妙な間隔で聞こえる水音が、わたしの胸の奥をふつふつと焦らしていく。

堪らず半身を起すと、どうしたの、と宗一郎の眼が尋ねた。

「水、漏れてるみたい」
「ああ、さっきから気になってたけど」
「たぶんキッチンだよ、止めてくる」
「そのままで行ったら風邪ひくよ」

するりと宗一郎の腕がのびて、起こして露わになったわたしの肩を抱いた。そうして素早く口づけられる。男の人の手の感触。ずっと細いと思ってたけど、こうして服を脱いだら、どれだけ鍛えてるかわかる。胸元とか、上腕とか、うっすら隆起してる筋肉がわたしを密かに煽ってる。

「俺がいくから」

はそこで寝てて。肩を抱いたまま、ゆっくりベッドに沈められた。あ、この角度。見下ろされてる瞬間が好きだ。離れがたくて頬を撫でたら、手のひらに唇が触れた。やめて、そんな、優しすぎることは。わけもなく泣きたくなってしまう。


ベッドのすぐ横に散乱した衣服から、もうすっかり冷たくなってしまったであろう一つを拾い上げる。夢から現実へ引き戻される。服を着る瞬間が、一番恐ろしい。特に冬の冷たさなんて最悪。消えてなくなるわけでもないのに、宗一郎が遠くへ行くような気がして、わたしは彼の腕にそっと触れる。首を傾けて、あやすように微笑む彼の、静かな視線がわたしの言葉を閉ざした。


隆起した肩に、赤黒い痣が一つ。ついさっき、わたしがつけた。自分の身体は今はよく見えないけど、鏡で見たら、きっとわたしにも同じような痣がある。その小さな生々しさが、わたしたちは生き物だってことを示してる。生きて、だから求め合ってる。そう信じていたい。

合宿中、ユニフォームに着替えたら、見えてしまうかしら。あの痣。けれどそんなことにすら、わたしは背徳的な昂りを感じる。自分の中にある暗く重たい愛情は、いつかこの人を殺してしまわないか。不意に怖くなることがある。動物みたいにぶつけ合うような行為なら、まだ理性を保てたかもしれない。だけどこの人との行為は、ゆらゆらと、水面を漂うな、それでいて甘美な旋律を奏でてしまうから。じわりと滲んで広がるのが、快楽なのか、はたまた悪魔の囁きなのか。どっちにしたってわたしは、やっぱり比較する術なんて持ってないのだ。されるが儘に、宗一郎の、優しい海に溺れていくだけ。


キッチンから戻ってきた宗一郎の、腕をとってベッドに引き込んだ。色気も何もないけど、今のわたしは、与えられすぎた幸福にこんな形でしか応えられない。けれど宗一郎は、そんなわたしにもやはり、穏やかに笑うのだ。


「どこにも行かないで」


無意識に出た言葉はあまりにチープで、だけどそれ以外の言い方が見つからなかった。花びらみたいにふわりと笑った。再び取り戻した温もりが、わたしの四肢をゆっくり撫でる。どこにも行かないよ。耳元で囁いて、そのまま柔らかい部分を舌が辿った。わたしの身体は途端に素直になる。我慢できなくて小さく息を漏らすと、宗一郎はそっとわたしの両足を割って、強く身体を引き寄せた。執拗なまでに、いったりきたり。込み上げる感覚に、呑まれてしまわないように、必死に宗一郎の背中に手をのばした。

肩や、胸や、下腹部にチリチリと赤い痛みを感じる。美しい獣に蹂躙される。全身が、張り詰めた悦びで浸食されていく。

「そ、う、いちろ…」
「もっと見せて、

禁断の所有欲。それは彼も同じかもしれない。どろどろに溶けそうな熱に埋もれて、言葉すらままならないわたしの身体を攻め立てる宗一郎に、ふとそんなことを思う。けれどそんな一瞬の迷いも、やがて恍惚とした白濁に呑み込まれる。宗一郎の動きが激しくなる。わたしの意識は、自分ですら掴めないまま、遠い遠い光の先へ引き込まれように、消えていく。










(12.01.24)
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